古の人々は何をどう調理していた?
土器に残る痕跡に見る「普通の暮らし」

大学院人文社会科学研究部附属 国際人文社会科学研究センター

久保田 慎二 准教授

研究
インタビュー担当

インタビュー担当の健児くんです。
遺跡などから出土する土器などの遺物から、稲作をはじめとする農耕文化や、古の人々が何をどうやって調理し、どう食べていたか、その食文化も復元する研究を進めているのが久保田慎二准教授です。生活に欠かせない道具だった土器に残る痕跡から、古の「普通の人々」の暮らしが鮮やかに蘇ります。

東アジアの稲作や食文化の発祥地・中国が専門の考古学研究

まずは研究内容をご紹介ください。

私は中国の考古学を専門にしています。中国は文化の発信地であり、農耕や、穀物を中心とする作物、そしてそれらの調理法や食べ方も、中国から東アジアの国々へと広がっていきました。その過程を、出土した土器をはじめとする遺物から明らかにする、農耕や食文化の復元が私の研究の大きな柱です。一例として、中国最古の王朝とされる夏(か)王朝や、その後に成立した殷(いん)王朝における土器利用や調理法、どんなものを食べていたか、加えて、その背景にある社会や文化の変遷を見る研究を行っています。

考古学は出土した遺物を見て歴史を復元する学問ですが、それだけで農耕や食文化を復元することは難しいので、文献を専門とする研究者や民族誌の研究者、地球科学や農学の研究者にも入っていただく学際的アプローチが不可欠です。考古学だけではできないような分析方法も用いながら、目的を達成しようとしています。

土器は、当時の人々の食にかかわる情報の宝庫

何千年も前の土器から、食材や調理法までわかるんですか。

どんな食材を煮炊きしたのかを知る手掛かりが、土器の中に残るお焦げ。これは、お焦げの中の脂質分析や、含まれている炭素の同位体の分析でわかります。例えばプラント・オパールという珪酸体は稲にしか含まれないので、お焦げにそれが入っていれば、お米を調理していた可能性が高くなります。

調理法も、土器の使用痕跡からわかります。ただ、私たちはもう土器を使って調理をするようなことはしないので、解釈の助けとするために、例えば東南アジアで近年まで土器を使っていた民族を訪ねて使用法を見せてもらったり、中国国内の遺跡から出るアワやキビの調理法を知るために、中国で自給自足に近い暮らしをしている人たちに加工法や調理法を見せてもらうような民族調査も続けています。

調理法は中国から東アジアにどう広がったのですか。

中国では、稲作が始まった頃に、お米にたっぷりの水を入れてゆで、いったん7~8割のお湯を捨て、そのあとに蒸らす「湯取り法」と、お米にほかの食材も混ぜてごった煮にする「お粥」という2つの調理法が生まれました。日本には弥生時代、稲作と同時に「湯取り法」が伝来。「湯取り法」は日本だけでなく、東南アジアなど中国の周辺地域に伝わっています。その後、中国ではお米を蒸す調理法が生まれ、その調理方法も古墳時代以降の日本を含む様々な地域に広がっていきました。

調理法はなぜ変化したのでしょうか。

調理法の中でもお米を蒸す方法は、権力の出現と連動していると考えられます。権力者のもとに集まるお米を調理して一般の人々に再分配するには、大量調理ができる蒸す方法が適しているからです。また、蒸す調理法は炊飯より失敗が少なく、お米の品質がバラバラでもうまく調理しやすい、という点もあります。

日本では、中国から伝わった「湯取り法」は、古代から中世以降に、現在の炊飯と同じやり方である「炊干し法」に変化するとされます。その背景にあるのが、稲の品種の変化。「湯取り法」で調理していた頃の品種は熱帯ジャポニカ米で、現在の東南アジアのお米のような、少しパサパサとした品種です。そのパサパサを生かすのが「湯取り法」で、これで調理されたご飯は、スープ状のおかずによく合います。しかし中世ぐらいになると、現在私たちが食べているような温帯ジャポニカ米に変化。粘性が高いので、お湯を捨てずに炊き上げる「炊干し法」が適していると考えられています。

東アジア最古の「炊飯調理」痕跡が判明!

中国の研究では、どのようなことがわかっているのですか。

長江の下流域にある、紀元前5000年くらいの河姆渡(かぼと)文化の遺跡のひとつ、田螺山(でんらざん)遺跡は、初期の稲作文化が形成された時代の遺跡です。ここで、人々がどういうふうに土器を使いながらお米を調理していたのかを調査すると、この地の初期稲作民がお米を炊飯する「湯取り法」で調理していたことがわかりました。今のところ、東アジアでもっとも古い炊飯痕跡と考えています。
ただ、炊飯痕跡を持つ土器は少なくて、多く出土している土器の痕跡は、お粥を作っていたことを示しています。しかもその中にはお米だけではなく、様々な食材を入れていたことが残存脂質分析でわかりました。稲作の技術が安定しておらず、収量も十分ではなかったため、水分や他の具材でかさましして、お米を有効利用していたのだと思います。おそらく、炊飯は十分な量のお米があった時だけに行われたのでしょう。

もう一つ、中国の北にあった二里頭(にりとう)文化は、文字史料がないので実在が証明できない夏(か)王朝の人々が残した紀元前1750年から1550年頃の文化だといわれています。その遺跡では寸胴形の土器がたくさん出土したのですが、それらをどう使っていたのかはわかっていませんでした。そこで土器の表面の使用痕や残存脂質分析を行うと、これは食材を蒸すためのお湯を沸かす鍋だったことがわかったんです。
また、土器の表面にたくさん土が付いていたことから、竈(かまど)にこの土器をかけ、その上に蒸し器を置いて穀物を蒸していたこともわかりました。この時代には竈を使い始めていたことになりますが、竈は調理に特化した施設なので、二里頭文化の時代に「台所」が普及し始めたことになります。また、その後の漢代には竈で蒸し調理を行っていたことを示す遺物がたくさんありますし、それ以降の時代には文献にも多く記載されています。近現代の中国の農村でも台所には竈があり、そこでお米や雑穀を蒸していますので、この発見は現代につながる中国の食文化の起源を明らかにしました。田螺山遺跡の土器研究の成果とともに、こちらも中国国内では結構高評価をいただきました。

用途論や機能論が真っ先に来るべき土器研究

出土した遺物から、古の人々の生活が蘇りますね!

日本の伝統的な考古学は、出土した土器などの形状や文様を見て、いつの時代の、どこのものかを明らかにすることが大きな目的になっています。しかし、当時の人たちは、土器を自分たちの時代や地域を示すために作ったわけではなく、使うことを考えて使いやすく作ったはず。それならば、こういった土器などの研究はやはり、用途論や機能論が真っ先になければいけないと思うんです。そこに生きていた人々のうち、99.9%は普通の人たち。そんな人たちの生活を復元することも大事だし、魅力的だと考えています。

高校生くらいまでは歴史は教科の一つとして「学ぶ」対象になっています。どう国ができ、どう権力が生まれたのか。それも大事ですが、歴史はそれだけではなく、国や権力が生まれた同じ時期に、様々な人々が生きていたわけです。歴史とはもっと重層的なもの。その層の中にある、これまで誰にも知られていなかったことがわかり、それが知識として浸透していくと歴史として認知されるようになる。特に文字のない時代や文字として残らない一般の人たちの歴史を復元できるのが考古学の醍醐味だと思います。

先生は、なぜこのご研究を始められたのですか。

子どものころから遺跡や遺物、そして中国の歴史が好きでした。でもその気持ちは漠然としていて、大学は最初、商学部に進学。でも、発掘のアルバイトでやっぱり考古学をやりたいと思うようになりました。中国留学から帰国して就職を考えたこともあったのですが、考古学をあきらめたら絶対に後悔すると思って大学院に進学。そこからずっと考古学の世界にいます。

考古学における土器研究の魅力とは。

土器の調査をしていると、偶然、表面に残された人の指の形に、自分の指が合うことがあるんです。そういう時は、リアルに過去の人たちの存在を感じることができてとても感動します。私がずっと興味を持っている、古の一般的な人々の一般的な生活や食文化は土器研究と深くつながっています。
そしてもちろん、当時の人たちはただ農作業をしてご飯を食べていただけでなく、自分の周りにある自然や社会の環境に応じて、作物の種類や作り方、調理に使う道具や方法を選択していたはずです。いろいろな要因が複雑にからみ合うなかで私たちの生活は変遷して今に至るわけです。それらの過程を明らかにするためにも、考古学を中心に据えながら様々な分野の視点を取り入れて研究を進めていきたいと思っています。

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