亡くなった方の尊厳を守る法医学
死因を明らかにすることの大切さを知ってほしい

大学院生命科学研究部 環境社会医学部門 環境生命科学分野 法医学講座

笹尾 亜子 助教

研究
インタビュー担当

インタビュー担当の健児くんです。
死因が明らかでない異状死体の解剖を行う熊本大学医学部の法医学講座。ここで、死因に薬毒物の影響がないかを分析する役割を担っているのが、薬学出身の笹尾亜子助教です。近年はドラマなどでも描かれて、広く知られるようになった法医学。実際にはどんな世界で、どんな喜びや苦労があるのでしょうか。

熊本県で唯一、異状死の解剖を引き受けている法医学講座

先生が在籍されている法医学講座について教えてください。

 熊本大学医学部の法医学講座は、熊本県内の異状死体の解剖を一手に引き受けています。異状死には、死因が明らかな病死や自然死以外の、例えば犯罪によるもの、自殺、死因が分からない災害死や事故死、誰もいないところで亡くなる孤立死などがあります。
 この講座では年間約120から150件の解剖を実施。執刀は医師が担当し、解剖された方の死因に対する薬毒物の影響の有無を調べるのが、薬学出身の私の役割です。

日本の法医解剖はどのような現状なのですか。

 異状死の場合、検死を行う医師立会いのもと、解剖が必要かどうかは警察と共同して判断しています。
 日本で解剖が必要と判断されるケースは、警察が臨場する現場数の約10%。イギリスやオーストラリアでは約50%で、福祉が行き届いている国だと70~80%の解剖率なので、日本の解剖率は決して高くありません。また熊本県の解剖率も全国から見ると低い方なので、良い状況とは言えません。

 解剖が行われないと、本当の死因が見逃される心配があります。私が担当している薬毒物は特に、きちんと調べないと分からないことが多いんです。
 日本の解剖率が低い理由の一つは、医師が解剖の必要性を判断する海外と比べ、日本はしばしば警察に判断がゆだねられがちであること。このシステムはすごく前から続いていて、それを変えるのは相当大変だと思っています。また、現場で検死を行う医師や解剖をする医師の数が少ないことも挙げられます。検死を行う医師の不足には、警察も苦労している状況です。

死因を明らかにする意義を、どう考えておられますか。

 日本の解剖数が少ないもう一つの背景として、私は、「死んでしまった以上、理由を探っても仕方ない」と考える人が多いのでは、と感じています。死因を明らかにすることを、簡単に放棄してしまいがちというか。それをいつも残念に思います。
 法医学の先生達は、亡くなった方がどうして亡くなったのかを最後まで調べようとします。例えば遺伝的な何かが関係しているとしたら、それは残された遺族に大切なメッセージになるかもしれません。法医学は亡くなった方の尊厳を守る学問。亡くなった方のことを簡単に諦めないでほしいと思います。一生懸命最後まで生きたのに、死んでしまったらその原因を探っても仕方ない、と思われたら悲しいですよね。

 「死」を対象とする法医学講座はいわば「影の部分」にいますが、スタッフはいつも和気あいあいと仕事をしています。亡くなった方に対する研究はまだ進んでいないことも多く興味深い学問なので、ぜひ講座を訪ねてきてほしいですね。

(熊本大学医学部法医学講座のスタッフと実習中の医学部生)

日本の薬毒物中毒の現状に合う検査キットの開発研究

検視や解剖に関わるご研究も進められているとか。

 熊本大学の法医学講座では、ご遺体の血液を使って薬毒物の検査を行います。その際に使うのは大型の分析機器。高価だし、操作も複雑で扱うにはそれなりのスキルが必要です。もし簡単に薬物を検出できる検査キットがあれば、誰でもすぐ、比較的正確に調べることができます。

 実際に現場での検視に使われている薬毒物検査キットはあるんですが、海外製が多いため、検出できるのが覚せい剤、大麻、コカインなど。海外ではこういった薬物の濫用が多いからなんです。これに対し、医薬品による死亡事例が多いのが日本。中でも、向精神薬と言われる睡眠薬や抗うつ薬、統合失調症の方向けの薬などを使った自殺が増えていて、私はそういった向精神薬をターゲットにした検査キットを作る研究を行っています。

(現場で使用される薬物検出キット)

向精神薬の検査キットをつくるのは難しいのですか。

 検査キットには、目的の薬毒物に対する抗体が必要です。その抗体を作ることが実はちょっと大変なんです。目的のものが例えばタンパク質なら、動物に免疫させればすぐに抗体ができます。しかし薬はすごく小さい分子なので、そのままでは抗体ができません。だから、薬物を何かにくっつけて動物に免疫させ抗体を作る、という操作を行います。
 さらに、免疫させた動物から抗体を作っている遺伝子を取ってきて、その遺伝子を組み替えていろんな抗体のストックを作り、そこから、目的の薬物に反応するようなものを釣り上げる。それを使えば検査キットを作ることができると考えています。

 もし、向精神薬を検出できる検査キットができれば、異状死の現場を見る警察だけではなく、中毒を起こした方を助ける救急医療でも役立つと思います。何の薬を飲み過ぎているのかがすぐに分かれば、医師も対応がしやすくなりますから。
 向精神薬をターゲットにした検査キットは海外でも積極的に作られていません。薬物に対する抗体を作るのが非常に面倒ということもあり、企業もあまり研究していないんです。こういった研究を行うことは、大学の使命の一つだと思います。

研究の中で感じる喜びはありますか。

 薬毒物の中毒分野は、医学と薬学の境目にあり、取りこぼされやすい領域。私としてはこの領域は薬学が担うべきだと思っています。薬学にも様々な研究領域がありますが、薬毒物中毒という社会的学問も、すごく大事です。亡くなってしまったらそれは本当に残念なことですが、その死因にかかわるデータは今後の参考になるし、それを論文という形で世の中に残していくことは私の使命であり、それができるのは幸せなこと。この仕事のやりがいだと思っています。

募集があったから来た法医学講座。でも、携わるうち興味が増した

先生がこの法医学講座に来たきっかけは何だったんですか。

 私は熊本大学薬学部出身で、薬剤師の資格も持っています。故郷の鹿児島に帰って薬剤師になる道もあったのですが、ある時、当時所属していた研究室の教授から、「医学部の法医学講座で助手を募集しているから、行ってみたら」と言われたんです。来てみたら、仕事をしているうちにおもしろいと感じるようになりました。

 研究はずっと続いていくものですが、同じことは繰り返しません。変化が続き、ずっと上昇し続けているような気持ちになれる。それが、私が感じる研究のおもしろさです。また、自分はずっと同じ場所にいますが、ここにはいろんな学生さんが入ってきては卒業していきます。彼らとの出会いにもワクワクします。

ダイバーシティ推進室のコーディネーターもされているそうですね。

 私が若い頃は、結婚して出産、育児をするという時に、どれくらいで復帰できるのか、研究を維持できるのか、何もわからなくて先輩の女性研究者に質問したりしていました。ある先輩が出産後2カ月で復帰したと聞いたので私もそうしたら、「本当に2カ月で復帰したの!」と驚かれました(笑)。

 私の産休中や育児期間中は、大学が研究補助を付けるサポートをしてくれました。自分が進められない部分は補助の方がやってくれて、研究を途絶えさせずに続けることができたんです。だから、次は自分が助ける番だとコーディネーターを引き受けました。心配なことに答えることができる、困った時に頼ってもらえる、そんな窓口を開けておきたいと思っています。

(ダイバーシティ推進室の皆さん)

若い女性たちに、伝えたいことは。

 権力に欲望してください、と言いたいです。
 多くの人が、権力は汚いもののように感じていると思いますが、私は、力がないと物事を変えることができないと思うんです。権力というものに嫌悪感を持たず、チャンスがあれば上位職に上がっていってほしい。今は大学全体としても女性研究者比率を上げないといけないし、女性の活躍を応援してくれています。私なんて無理、と思わずに、もし自分に力が足りないと思うなら、上位職に就いた上でなお頑張り続けてほしいと思います。